帰宅を望む。
父は今、施設で生活をしている。
1年以上過ごし、毎日リハビリと日常動作の訓練をし、集団の中での振る舞いを学び、
父の口からどういったことが難しく、どういったことに気を付けているかなどと言った話をよく聞くようになった。
病気に対する認識は甘いが、回復したように私には見えていた。
次は社会的な関わりを増やしていく必要があると私は焦っていた。
本人が落ち込んだり苛立ったりするのは、家族が支配的で、不安がらせているからだと信じ込んでいた。
障害による気分障害への対処を本人は身につけようとしているのに、身に付けられるはずの状態まで回復しているのに、支援できていないと思い込んでいた。
人の生活は、自宅での生活を基準に考えるという発想が抜け落ちていることにふと気づいた。
自宅での生活は不可能だから、そこを目標にするという感覚がなかった。
自宅で父が生活するならと想定したとき、父の障害に対する認識は殆どないといっていい状態であった。
父の今の姿を見れていないことに気付かされた。
焦るあまり、できない理想を身過ぎていた。
できていると思い込んで、過剰な負荷を与えていた。
重すぎる負担は、父の為にはならない。
私は自己満足の為に、父へ課題や役割を与えようとしていた。
自分の状態と父の状態に少し気づかされた。
施設の中ではできているように見えることや父自身もやらなくていいことがたくさんある。
でも、それは支えられている状態でしかない。
それらを取り除いたと想定したときなにが見えるのか?
自立した生活を送ると考えたときに見えてくる問題はなにか?
実際に在宅での介護を行うことができないとしても、現実的な目標を立てるためには、持つべき視点なのだと思った。