日々の

愚痴と悩み

軽蔑する心。

元々ADHD傾向のある気質に、支配的な教育を受けてきた本人が高次脳機能障害になっただけで対応に限界を感じているのに、老化や新たな病気が加わることを思うと不安しかない。


私が父に生きることを強要した責任は、どのようにすればとれているとされるのか?


私は父と向き合うための時間で、私が向き合えたかもしれない人たちとの時間を失っている。

私の人生は何をしたくてあるのか?


私の人生において、父の人生において、それはどれほどの意味をなすのか?


目の前の父とどれだけ向き合おうとしたところで、父がこれまでに経験してきたことは変わらないし、高齢である父の価値観を変えようとすること自体、私の価値観の押し付けでしかないようにも思う。

向き合うとは何か?

尊重するとは何か?

自尊感情を高めて欲しいと思うが、私より長い人生を生き、自己を画一してきた父に強要すること自体が人格否定な気もするのだ。


高次脳機能障害は回復か現状維持しかしないというが、高齢になれば脳は衰えるし、脳を含めた肉体が老いていくにつれ心身も環境の変化に弱くなる。

いずれは認知症を発症する可能性だってある。

高次脳機能障害認知症を併発しないという話があるのか?


父自身が父の障害に対して嫌悪感や悲観的な感覚を抱くのは、父のもつ差別心によるものでもあると思うのだ。


だからこそ、その差別的な父の言動を憎く思うし、父の思想や人格さえも軽蔑してしまう。


差別心は私の中にもあるにもかかわらずだ。

私は父以上に差別な人間なのだと思う。


父を軽蔑し憎く思うほどには、強い差別心が私の中にある。


介護以前の根本的なコミュニケーションの問題が私と父の間にはある。