日々の

愚痴と悩み

父と父を取り囲む親戚と。

親戚は誰かがつらい時、他の親戚も精神的につらい思いをする。

その上でさらにつらい思いをしている親戚への負担が増えるものだと、私は考えている。
ただ、その癖、依存できること、理解されることが当たり前のように感じてしまうことがほとんどなのだ。


結果、家族は所詮、血が繋がっただけの他人なのだと感じ続けてもいた。
それは、縁を切ることもできない私が、親戚らに、私の考え方や価値観を一番理解してほしいと一方的なわがままをぶつけようとしていたからだ。

私自身が本当の意味で他人として関わること、つまり、理解されることはないのだというある種の諦めと、全く異なる人生をもって、一人の人として価値観を持っているのだと意識することで、相手を受け入れようという気持ちの余裕を意識できるようになるのではないかと今、少し感じている。
相手に理解を押し付けるのでなく、人として向き合うことで初めて話ができるのではないか。

相手は、あくまでも別の人なのだ。
私が生きることの責任を相手に押し付けていきたいわけではない。
相手を支配したいわけでも、支配されたいわけでもない。

私は自分自身の考えや主張を相手に訴えることだけに意識を持って行きすぎていないか?
私は相手が見せる目の前の感情に意識を向けすぎてはいないか?
伝えることから逃げては、向き合うことも理解されることもありえないけれど、主張することだけでは、相手に理解されることも相手を理解することも、その先も何も生まれないのではないか?