日々の

愚痴と悩み

軽蔑する心。

元々ADHD傾向のある気質に、支配的な教育を受けてきた本人が高次脳機能障害になっただけで対応に限界を感じているのに、老化や新たな病気が加わることを思うと不安しかない。


私が父に生きることを強要した責任は、どのようにすればとれているとされるのか?


私は父と向き合うための時間で、私が向き合えたかもしれない人たちとの時間を失っている。

私の人生は何をしたくてあるのか?


私の人生において、父の人生において、それはどれほどの意味をなすのか?


目の前の父とどれだけ向き合おうとしたところで、父がこれまでに経験してきたことは変わらないし、高齢である父の価値観を変えようとすること自体、私の価値観の押し付けでしかないようにも思う。

向き合うとは何か?

尊重するとは何か?

自尊感情を高めて欲しいと思うが、私より長い人生を生き、自己を画一してきた父に強要すること自体が人格否定な気もするのだ。


高次脳機能障害は回復か現状維持しかしないというが、高齢になれば脳は衰えるし、脳を含めた肉体が老いていくにつれ心身も環境の変化に弱くなる。

いずれは認知症を発症する可能性だってある。

高次脳機能障害認知症を併発しないという話があるのか?


父自身が父の障害に対して嫌悪感や悲観的な感覚を抱くのは、父のもつ差別心によるものでもあると思うのだ。


だからこそ、その差別的な父の言動を憎く思うし、父の思想や人格さえも軽蔑してしまう。


差別心は私の中にもあるにもかかわらずだ。

私は父以上に差別な人間なのだと思う。


父を軽蔑し憎く思うほどには、強い差別心が私の中にある。


介護以前の根本的なコミュニケーションの問題が私と父の間にはある。

帰宅を望む。

父は今、施設で生活をしている。

1年以上過ごし、毎日リハビリと日常動作の訓練をし、集団の中での振る舞いを学び、

父の口からどういったことが難しく、どういったことに気を付けているかなどと言った話をよく聞くようになった。


病気に対する認識は甘いが、回復したように私には見えていた。


次は社会的な関わりを増やしていく必要があると私は焦っていた。

本人が落ち込んだり苛立ったりするのは、家族が支配的で、不安がらせているからだと信じ込んでいた。

障害による気分障害への対処を本人は身につけようとしているのに、身に付けられるはずの状態まで回復しているのに、支援できていないと思い込んでいた。


人の生活は、自宅での生活を基準に考えるという発想が抜け落ちていることにふと気づいた。


自宅での生活は不可能だから、そこを目標にするという感覚がなかった。


自宅で父が生活するならと想定したとき、父の障害に対する認識は殆どないといっていい状態であった。

父の今の姿を見れていないことに気付かされた。


焦るあまり、できない理想を身過ぎていた。

できていると思い込んで、過剰な負荷を与えていた。

重すぎる負担は、父の為にはならない。

私は自己満足の為に、父へ課題や役割を与えようとしていた。


自分の状態と父の状態に少し気づかされた。


施設の中ではできているように見えることや父自身もやらなくていいことがたくさんある。

でも、それは支えられている状態でしかない。


それらを取り除いたと想定したときなにが見えるのか?

自立した生活を送ると考えたときに見えてくる問題はなにか?

実際に在宅での介護を行うことができないとしても、現実的な目標を立てるためには、持つべき視点なのだと思った。